そもそも一人で生きていくだけならばそこまでお金も物も必要ないのではないか。
これはすでに色々なミニマリストの人や年収90万円東京ハッピーライフの人が実現しているのだ。
なんなら実家を出るときに親に「オレの部屋に残ってるモノ全部捨てていいよ」そう伝えて一人暮らしを始め、その後引っ越し先で何も買わないだけで新人ミニマリストのできあがりなのだ。

しかし、ことはそう単純ではなく一人で生きていないからこそお金はかかるのだ。
独り身で低年収でサイドFIRE自体はじつは難易度が高くもなく、だからこそそうした情報のほうが目にする機会が多いのではないか。
最初からそれがゴールであるならば何もだれも苦労はしていないのだが、独り身で隠遁が正解といわれては僕らにはどうしようもない。
いや、たしかにそうした独り身のミニマリストの発信内容もタメになるし、正直なところリスペクトだってしている。
それでもそうした発信者の発信内容からは家族持ちはおいてけぼりを食らっているのが現状なのである。
はたして家族を持った状態というハードモードでクリアは可能なのか。
自分1人とは違ってどうにもならない難題や葛藤。
それを乗り越えて僕らは目指しべき地平へとたどり着くことができるのだろうか。
そもそも、なぜ家族を持つ必要があるのか
幸福は人それぞれなので、決して独身を否定しているわけではないことは最初にいっておきたい。
隣の芝は青く見えるってなわけでなんなら家族持ちは、独身者の自由さや時間やお金をすべて自身のために使えることに羨望もあるだろう。
『結婚は人生の墓場』などという言葉が一般に流布していることからもそれはありふれた話だということがうかがい知れる。
では、そうまで言われたり、前述したようにミニマリストやFIREをハードモードにする家族をなぜ持つ必要があるのかを考えてみたい。
個人レベルの幸福でいえば、むりに家族を持つ必要は特にない時代
そう、友人知人など周りを見渡してもかならずしも結婚して子供のいる人ばかりではないそんな時代だ。
まわりがみんながみんな家族をもっていたら肩身のせまい思いもしたかもしれないが、今の時代はそれほどではないのではないだろうか。
そっか、じゃあ幸福になるのに家族は必須ではないなら、やっぱ独り身ミニマリストは正解ってこと?
そう思いますよね?
まぁ、ある意味ではそうかもしれないが、遺伝子の生き残りという意味ではそうでもない。
進化の先にあるのは生き残った遺伝子のみ。
淘汰されないためにはやはり家族をもつ必要はあるといえるだろう。
しかし、これは『遺伝子の奴隷として僕らは使われている』という考えかたもできる。

そういう意味では資本主義からの自由だけでなく遺伝子からも自由という究極のフリーダムな人類が独り身FIREミニマリストといえるかもしれないのだ。
それでも遺伝子の犬としての幸福を探ってみる
たしかに家族持ちは究極の自由ではないかもしれない。
それでもそこには人間が幸福を感じることができるようになっているはずなのだ。
なぜなら遺伝子が途絶えぬように子孫を繁栄するように幸福感もその道具として活用されているはずだからだ。
だから、あえてなろう。遺伝子の犬に。
というわけで、家族をもつという遺伝子の鎖につながれつつも資本主義の鎖から自由になれるのか、模索してみよう。
それがこのブログの趣旨である。
家族持ちのFIREを困難にする資本主義の罠
子どもが生まれて家族が増えるとお金もかかる。
それは僕らもなんとなく認識していてそのとおりなんだけど、よく考えてみると何にお金がかかるようになるのかは正確に把握しているだろうか。
決まり文句としての「おむつ代の足しに」などという言葉もあるが、たしかにおむつ代は子どもが生まれたことで新たに追加されるサブスク費用だ。

しかしおむつ代というのは数年間と期間が限定されているし、金額もたかがしれているのだ。
さらにいうと衣服もムダに高いものを選ばなければ、さほどかかるものでもない。
子ども一人育てるのに一千万とか言われるそれはいったいぜんたい何にかかっているのか?
それが、これら『学習費用』と家賃だ。
- 習い事
- 学習塾
- 予備校
- 大学
大学の学費だけでも400万ぐらいかかるので、大学と受験の予備校代だけでも子育て費用1000万の半分以上占めていることがわかる。
この学習費用というものは現代に生きているとあたりまえに使われることになってしまっているが、本当に必要なのだろうか。
たしかに一部の国や職種では学歴による門前払いはあるかもしれない。
しかし、すべての子どもたちは“その職業”で働きたいと思っているんだろうか?
なぜかすべての子どもが習い事に行き、塾通いして受験して、偏差値の高い学校にいけばお金持ちになれるという刷り込みがなされていないだろうか。
つごうよく働いてくれるる労働者を“大量生産”するためのシステムが学校なのだとしたら、これぞ資本主義の罠以外のなにものでもない。
資本主義の消費者としてお金を払いながら、優秀な労働者という“時間を搾取される人間”として育成されるのだ。
親にお金がなければ子ども自身に奨学金という借金を負わせて労働者としての枷をかけられるというのが、資本主義のワナであり、僕らをしばりつけるナワでもあるのだ。
家族持ちのミニマリストを困難にする資本主義の罠
独り身ミニマリストはもはや持つ必要のないやたらと場所をとるアイテムが家族持ちにはある。
赤ん坊が生まれればベビーベッド、ベビーカー、メリー、沐浴ようにベビーバスなどもいるかもしれない。
さらには前述したように資本主義のワナによって“よい大学”に入れるように優秀に育てようと思うと思うのはごく自然な流れだ。
となると知育に関するもろもろの教材やら玩具が増えていくというわけだ。
しかも使い終わったらすぐに捨てられるならいいが、兄弟姉妹がいたら下の子にとっておこうと考えたらもう大変というわけさ。
そして幼稚園、保育園が終わって小学生になってからが本番で次のようなモノたちが家にやってくる。
- ランドセル
- 学校の教材
- リコーダー、ピアニカなど楽器
- 習字道具
- 絵具など絵画道具
- 水筒
家族持ちミニマリストの強敵、その名はランドセル
ランドセルなどはまさに資本主義の権化ではないだろうか。
親も自分用に買わないような革の鞄が半強制購入という文化が、いまだに続いているのはいかがなものかとは思う。
▼このように1万切っているものなら金額的にはまだ許せるが普通にこの5倍するような製品も売り場にはならんでいる。

金額面についてはママ友的なつながりなどでランドセル金額マウントに巻き込まれなければなんとかなるかもしれない。
しかし、問題はもうひとつある。
ランドセルというやつは小さくたためないので、かさばるのである。
そもそも教科書を毎日持ち帰らせていることも疑問だし、クロームブックを生徒一人一人に支給しているのなら教科書の電子化をすればいい。
そうすればこんなに大きなランドセルは不要なのだ。
学校で使う道具はレンタルでよろしく
さらに習字の道具や絵具も全部買わせるし持ち帰らせるわけだが、これもやめるべき文化だ。
夏休みとか長期休みのたびに持って帰らせる必要ないと思う。
学校に置いといてください、本当に。
口をつける楽器については購入するのもわかるが、習字道具などは学校で購入して貸し出すべきだろう。
絵具やクレヨンなど絶対に減りやすい色やみんながあまらせる色があるわけで、個人で買わずに学校で管理貸出ししてくれれば減る色だけ購入すればいいのでムダがない。
これをわざわざ個人に買わせるあたりに資本主義のご都合がかいまみえるというものだ。
昔は水筒など持たされず、のどがかわけば学校の水道を飲んでいたはずだが今の時代はなぜか水筒を持参させられる。
小学生の荷物はもっと減らすべきだ。あれを見て大人たちは、かわいそうだと思わないんだろうか?
僕は会社員のときに手ぶらで出社していたが、小学生も手ぶらで通学できる時代が早くきてほしいと、せつに願っている。
さらに大きくなると必要になるだろうモノたち
- 個室
- 勉強机
そして、もっと大きくなると個室なども家賃レベルでコストが増えるという段階に突入するわけだ。
やれやれ困ったものだという話だが、これらについてもそのときに備えて今から対策を考えておかねばならないだろう。
家族4人でミニマリストやFIREというハードモードへの道
さて、このように今回みてきたように家族が多くなるとハードモードになるFIREやミニマリスト。
なんだかんだいって、家族持ちミニマリストといっても子どもがいなかったりまだ赤ん坊だったり、もしくは離婚していてパートナーがいなかったりすることが多い。
ミニマリストやFIRE的なことに興味がないパートナーとの理解の過程や散らかしモンスターの子どもたちがいてこそのハードモード。
このブログは、そのハードモードを攻略した人間が書いているわけではない。
片付けの専門家や金融のプロが書いているわけでもない。
そういう専門家がご高説を語る場ではないのだ。

同じハードモードの“鉄骨渡り”を歩む同志である僕が、同じ鉄骨を渡る仲間であるあなたに、今まさに渡っている最中に見つけた攻略法を伝えたりエールを送る伝達手段。
それがこのブログ『ブランクライフ』なのだ。
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