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『習い事』という名の時間どろぼう。小学生に多くの習い事は必要ないよね

『習い事』という名の時間どろぼう。小学生に多くの習い事は必要ないよね

2022年3月14日

いやいや、小学生こそ習い事でしょ? そんな声が聞こえてきそうだがはたしてそうだろうか。

習い事させない子育てがこれからの時代にこそ必要なのではないか。

まるで習い事も義務教育かのような我が物顔をしている現代。この前時代の常識をそろそろやめませんか? という話である。

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その習い事、本当に必要ですか?

学歴社会の理不尽さや学費のギャンブル的な性質についての記事を書いたが、勉強の学費だけでなく習い事もよく考えなければならない。

節約とか頑張るよりもまず学歴社会にカモられるのをやめよう

僕らも子ども時代に習い事にいっていて“習い事はみんないくもの”だと刷り込まれてきているからだ。

「なんか知らんが、みんなも行ってるし自分も過去いったし習い事に行かせてあげなければかわいそう」

そんな社会からの謎のマイルド洗脳によって何も考えずに僕らは当然のように習い事に我が子を通わせる。

共働きで早い時間の習い事は行かせられないけど「遅くまでやってるこの習い事なら行かせてあげられる」などとわざわざ遅い時間の習い事に通わせたりするのである。

実際に我が家でも長男が保育園のときに2年間ほど、遅い時間でも行ける習い事ということで、くもんに通わせていた過去がある。

保育園の送り迎えで他のママさんたちが立ち話している会話が聞こえてきたりするのだが、複数の習い事を毎日のように日替わりで通わせている人もいるようだ。

習い事なんて5000円ぐらいかと思っていたが、昨今は7、8千円するようなものも普通である。

8千円だと時給千円なら1日、時給二千円でも半日仕事。

子供二人いたら倍になって時給二千円でも一日使うことになる。

その習い事のために毎月何時間自分が働いているのか? そのことを考える必要があるだろう。

平日の勤務であれば普通働くのは20日前後だろう。
そのうちの一日を習い事に通わせるために使うほどの価値があるのか今一度考えてほしい。

複数の習い事を兄弟の人数分払ったら簡単に数万円が消えてしまうのだ。

たとえば時給1000円の人が習い事を5つ通わせるということは一か月の働きの四分の一である1週間の労働を習い事に捧げるということなのだ。

多すぎる習い事は教育虐待という無自覚な虐待の可能性

▲このブルーピリオドの11巻は絵画教室が舞台になっている話で、作中に複数の習い事をしている子どもが出てくる。

フィクションではあるがリアリティがあり、実際にこういった習い事事情は実在していてもおかしくはない。

子どもがのぞんでいないのに親が習い事を増やしていくのは教育虐待になる危険性があるので、一度立ち止まって本当にその習い事は必要なのか考えてみてもいいだろう。

特に同時期に複数の習い事をつめこむ必要がはたしてあるのだろうか。

習い事をまったくさせなくてもネグレクトではない

習い事なんてのはそもそもオプションスキルであってそれをやらないからといって育児放棄(ネグレクト)であるわけがない。

むしろ習い事をやりすぎる教育虐待の危険性がないだけ安全だし健全である。

そもそも習い事なんてのは教えるべきことを外注化して他人に発注している行為である。

習い事に通わせるということ自体は『育児』でもなんでもないのである。

家事代行サービスを頼む旦那のことの家事に積極的な人と考えるだろうか。

習い事で忙しすぎる小学生たち

いまどきの子どもたちが習い事にいきすぎているため、友達どうしで遊ぶ約束をしようにも「その時間は習い事があるから」とろくに遊びの約束すらカンタンではないのだ。

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子どもたちが時間どろぼうのえじきにあっているのは決してモモのフィクションの世界の話だけではない。

必要以上に多い習い事という時間泥棒から僕らは子どもたちを救いださなくていいのだろうか?

習いごとの隠れ出費で親のお金と時間も消耗

習い事によって親の時間とお金も消耗する。

これは習い事代だけではない、隠れた出費が存在するのだ。

習い事に行ってくれればその間、親の自由な時間ができる……ならまだいいのだが、この習い事の意味も目的もよくわからず、とにかく通わせるものとなった現代。

逆に親が送り迎えをしたり習い事の最中待っていないといけないということで逆に親の自由時間を減らしてしまうのだ。

そして、さすがに習い事先で小一時間、親もただ待っているのは退屈だしコロナ禍で他の保護者と近くにいるよりは、と近くにある喫茶店にいったりすることもあるだろう。

数百円でも週に何回か習い事があったらその喫茶店代だけでも月に数千円。習い事ひとつぶんの金額ぐらいになってしまう。

こうした習い事に付随した隠れ出費でいつのまにか、可処分所得も可処分時間もなくなってしまうのである。

その習い事、プロを目指すためですか?

もちろん、すべての習い事を否定するつもりはない。

将棋やフィギュアスケートといった幼少期からやらねばプロになるのが難しい分野もあるだろう。

しかし、問いたい。

「その習い事はプロを目指すためですか?」

いや、なんとなく習い事いったほうがいいのかな。それぐらいの感覚であるのなら一度習い事の意味を考えなおしてみてはいかがだろうか。

「お金と時間を捧げる価値、そこにありますか?」

……と、これだけ習い事について、もの申しておいてなんだが数少ない習い事なら期間をある程度考えたうえで通わせるのはかまわないだろうと考えている。

実際に我が家でもプロを目指しているわけではないスイミングに通わせている。

しかし、周囲を見ていても習い事は過剰になりがちなので同時に複数やることには慎重に検討を重ねるほうがいいだろう。

習い事より大事なこと

習い事はそのときどき流行りは違うかもしれませんが、ある程度その種類は限られているのではないだろうか。

そもそも近所になければ通わせることもできないのであまり選択の余地もあるわけではない。

そうなるとどうなるかというと学校の勉強と同じように多くのライバルと同じ種目に放り込まれることになる。

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多くの他人と同じ土俵で戦うことはあまり賢い方法とはいえない。

ただでさえ義務教育で画一的に子どもを育成させられているというのに、放課後まで皆と同じような習い事で埋めつくしてしまっていいのだろうか。

日が暮れるまで、友だちと遊ぶ時間。

永遠にも思えるヒマを持てあます時間。

誰かにしばられない自由さ。

誰かと比較されない自由さ。

僕たち大人もいつの間にか失ってしまっていた、この習い事で得られるスキルよりも大切なこの『宝物』。

なぜそんなに急いで小学生から奪ってしまうのだろう。
それも、よかれと思って。

大人になった僕らはいつのまにか、日々時間に追われて不自由な日々を送っていないだろうか。

「もっと働いて評価の高い仕事をしないと」
「SNSにもいい投稿して評価を得ないと」
「みんながやり始めているアレもやらないと乗り遅れちゃう」
そんなふうに焦燥感に駆り立てられる日々。

このブログは、かつて小学生のときに持っていたはずの失われた『宝物』を僕ら大人たちが取り戻すための思索の旅だ。

せめて自分の子どもたちが小学生のうちから、この『宝物』を僕たちの手で奪いとらないようにしてあげたいものだ。